週刊代々木忠
恥じ入る心
2009年03月13日(金)
自分に自信を持ち、堂々としている人は輝いて見える。そういう人は、一見、押しも強そうである。
ところが、押しの強さや自分を前へ向かわせる推進力というのは、いわば2つある極の片方であって、問題はむしろ推進力の対極にある、もう一方の極ではないかと思うことがよくある。
たとえば、就職して営業部に配属されれば、売上の目標が待っている。お客さんに商品なりサービスを買ってもらわなければならないわけで、上司からは「いちいち相手のことを考えていて仕事になるかっ! そんなのはプロじゃないよ」って言われるかもしれない。僕らだったら「女の子をそこまで可哀想だと思って監督ができるか」みたいな。
でも、これって本当にそうだろうか?
アメリカはフロンティア・スピリット(開拓者精神)の名のもとに拡大政策を取りつづけてきた。それは西部開拓時代にとどまらず、グローバル化が所詮は世界のアメリカ化であったことを見てもわかるように、彼らはずっと拡大を目指している。要するに、イケイケ大好きなのだ。そして、おかしくなった。
以前、このブログでアユトン・クレナックの言葉として書いた「直線的な進歩」というのが、まさにこれである。「ノリノリ」の「イケイケ」だけでは、やがてバーストしてしまう。
では、推進力の対極とは何であろうか? 僕は「恥じ入る心」ではないかと思うのだ。欧米の「罪の文化」に対して、日本は「恥の文化」と言われるが、マンションの耐震構造をはじめ、食料品の賞味期限や原材料表示や産地等々、いろんなものの偽装が、ここ数年で、これでもかと言うくらい噴出した。
恥じ入る心とは、自分をふり返る力でもある。前に進み、そしてふり返る。この2つは、どちらも必要だからこそ両極なのである。
むかし、ある和尚が説教のなかで「人の前で堂々とオナラをしろ。一人でオナラをして恥じ入れ」と言った。
ふつうは逆で、だれもいない所なら堂々と屁もできるが、人前ならば恥ずかしい。ところが、この反対をしろと和尚は言う。つまり、前者は押しの強さや推進力であり、後者は恥じ入る心を言っているように思われる。どちらか片方だけではダメで、そのバランスが大切なのだと。
人は自分に自信がないと、保守・保身・防衛・防御にエネルギーを使う。そんな状態で「恥じ入れ」と言われても、土台無理な相談である。その意味では、恥じ入ることができるのは、真に自信を持った人だけなのかもしれない。
余談だが、イケイケの女の子がセックスで悦びを体験すると、恥じらいが出てくる。僕はカメラをのぞきながら、つい「うわっ、いい女だなぁ」と溜め息が漏れる......。
