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週刊代々木忠

アーカイブス006 「依存」から「自立」へ
  今回は「どうしたら真の自立ができるのか」について考えてみたい。自立というのは、なかなか難しい。なぜならば、僕たちはこの数十年で自立からは程遠い所まで来てしまったように思えるからだ。

 こんなことを書くと世の奥さんたちから叱られそうだが、数々の電化製品は家事の煩雑さを解消したり軽減してみせた。掃除機しかり、洗濯機しかり。炊事も風呂も、ボタンひとつでできる世の中である。電気・ガス・水道をライフラインと呼ぶが、文字どおり電気がひとたび止まろうものなら、僕たちは手も足も出なくなる。トイレを流すことさえままならないのだから。

 遊びにしてもそうだ。僕たちが子どもの頃は、自分たちで遊びを作り出していた。そして遊び道具も。それがだんだんメカニックになり電子化されて、今やゲーム機が多くの子どもたちの時間を占有している(いや、これは子どもばかりではないか……)。ゲームソフトというものは、ゲームをしなければいられない中毒状態を作るのが実にうまい。

 このように、快適さや便利さ、面白さという衣をまとって多くのモノが僕たちの生活に入り込み、それなしではもう生きていけない状態にまでなっている。これはモノに限らず、以前「自動車保険の功罪」という話でも書いたが、ある種のサービスもまた僕たちの主体性を奪っている。お金と引き換えに面倒なことは全部やってくれるのだから。

 つまり今の時代、たとえ本当の意味で自立しようと思っても、周囲を見まわしてみれば、何かに頼ることを強いられる世の中なのである。

 自立から遠ざかるということでは、法律やルールもその方向に向かっているように僕には思える。たとえばクルマを運転していると、歩行者がいきなり目の前を横切るという場面に遭遇する。横切る人は、歩行者優先なんだからクルマが止まるのが当たり前だと思っている。昔ならば道路を渡る際、自分の身は自分で守るという意識が働き、クルマに轢かれないよう歩行者も注意していたものだ。

 弱者にやさしい世の中には賛成だけれど、法律で保護される状態が当たり前になってしまうと、自分の命に関わるような重大なことも、どこか他人任せになっているようで、僕は怖いと思うのである。「保護されている」とは、見方を変えれば「縛られている」ということにもなるのだから。

 このように僕たちは何か(それはモノであったり、サービスであったり、ルールであったり)に知らず知らずのうちに頼ったり、それに縛られて生きている。主体性はどんどん稀薄になり、生かされているというか、もっと悪く言えば飼われている状態なのだ。では、誰が飼っているのかというと、組織はあるものの飼い主の実体がない。しかし、それは巡りめぐって自分たちがそうしているということなのだろう。

 では、どうしたらいいのだろうか。洗濯機をやめて、タライと洗濯板で手洗いというのでは現実味がない。僕は自立への第一歩は「目覚め」だと思う。自分がどういう状況に置かれているのかを自覚すること。これが重要なのだ。変えられなければ変えなくてもいい。ああ、自分はこんなに依存しているのだなぁと意識するだけでいいのである。

 「自覚」は今書いてきたような生活様式にとどまらない。「自分は本当にやりたいことを今やっているのか?」も自らに問うてみる。たとえば今の仕事が、本当に自分のやりたいことと一致している人は幸せだ。でも、そうでない人も、その自分を否定しないほうがいい。

 否定すると、自己正当化、さもなくば自己嫌悪が始まるだろう。これでは自分の中で分離が起こってしまう。分離とは自分が自分と闘うわけで、そこにエネルギーを取られていては、今の状況から抜け出すことはいっそう困難になってゆく。

 では、どうすればいいのか。自分のしたくないことをしている人は、善悪や正邪の意味づけを与えずに、ありのままを見るレッスンをすればいいのである。自分と本当に向き合ったとき、どうすればいいのかはおのずと見えてくるだろう。


(2010年12月17日掲載)



 英雄かそれとも裏切り者か。史上最大の内部告発といわれた“スノーデン事件”に挑戦したオリバー・ストーン監督の映画「スノーデン」の試写を見る機会に恵まれた。国家組織のために働いてきた彼が、人々のために働くことを決意し、行動を起こすさまが描かれるこの作品は、エドワード・スノーデンの生きざまを通して「真の自立とは何か」を深く考えさせてくれる。



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2016年11月18日