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アテナ映像

週刊代々木忠

アーカイブス014 つながれなかった男たち
  彼と初めて会ったのは、助監督として呼んだピンク映画の撮影現場だった。もう三十数年前のことだ。もともと水商売をしていた男で、人扱いが上手かった。仕事もテキパキしている。アテナ映像を興したとき、彼をプロダクション部門の責任者として迎えた。愛染恭子を育てた男である。

 彼はもともと酒が好きだったが、会社に出てきても目は真っ赤で、酒の匂いもぷんぷんさせるようになっていった。これではどうにもならないと、僕はプロダクション部門を独立させることにした。そうすれば責任もリスクも背負う。なにより自分で判断しなければならない。

 とはいえ、そこには当時、月に何千万と稼ぐ愛染も所属している。充分やっていけるだろうと僕は思った。ところが、彼はプロダクション経営よりも毎晩飲むほうに忙しかったようだ。

 肝臓がガタガタで入院した病院の医者から「親族を呼んでください」と言われたとき、僕も病室に駆けつけた。「しゃんとせんかい!」と彼の手を握るのだが、死が近づくにつれて指先からだんだん冷たくなっていくのがわかった。まだ50代だった。

 アテナの創業期には、元KGB(ソ連国家保安委員会)と称するドイツ人とも一緒に仕事をした。当時、撮影でフランスに行く際、モスクワ経由パリ行きが早いのだけれど、通訳である彼が断固としてモスクワ経由を拒否するものだから、遠回りのアンカレッジ経由で行ったのを覚えている。

 彼はもともと新聞社の特派員として日本に来た。そして日本の女に惚れて、子どもができた。僕が会ったころは、KGBから抜けて主に外タレのプロモーターを生業(なりわい)としていた。

 今のようにプロダクションが確立している時代ではなかったから、外国人のみならず出演希望の女の子を紹介してくれる彼は貴重な存在でもあった。ちなみに「ザ・面接」シリーズで次の場面へ進むときに差し込まれる「NEXT」は、彼の声を今もそのまま使っている。

 彼も酒が原因で50代で亡くなった。線香を上げに家に行ったとき、奥さんから特派員時代の写真を見せられた。そこにはインドのネール首相はじめ中東の要人たちにインタビューする彼が写っていた。元KGBというのも、あながち嘘ではなかったのかもしれないと遺影に手を合わせつつ思った。

 かつてこのブログに「死んだ男が残したものは」という話を書いた。その話の主人公である湯本(享年59歳)も、毎晩、焼酎を浴びるように飲んでいた。一周忌の墓参りがてら湯本の実家を訪ねたとき、彼が亡くなった部屋の引き戸には大きな穴があいたままだった。亡くなる前、暴れたのか、倒れたときにぶつけたのかはわからないが、壮絶な死にざまだったのだろうと思う。

 彼らは3人が3人とも社交的だった。その場を盛り上げるし、一緒に飲んでいる人はおそらく楽しい酒席だったことだろう。けれども、ずっとそばにいた僕にはわかるのだ。彼らが見せる底抜けに明るい笑顔も、豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格も、本当はもういっぱいいっぱいの状況であることを。

 真に酒が好きな人は酒の味を楽しむ。だが、彼らは味わうどころではなく、まるで何かから逃げるように酒をあおった。まるで賑やかに騒いでないといたたまれないかのように。

 彼らはいったい何から逃げようとしていたのだろう。きっとそれは孤独からだ。自分の本当の姿を気取られまいとして、虚勢を張り、違う自分を演じる。そしてそのギャップに苦しみ、また酒へと逃げる。しかし、違う自分を演じるということは、そもそも自分が本当の自分とつながっていないということである。自分とつながれない人間が、どうして人とつながれるだろう。

 これは、男性体験が100人、200人という女性たちと根っこは同じだ。彼女たちは次から次に男とセックスすることで、彼らは酒を暴飲することで、孤独を束の間まぎらわす。どちらも、まさに自傷行為なのである。

 ずっと僕は彼らとお互いを見せ合ったつもりでいた。だから、彼らにとって耳が痛いことも臆せずに言ったし、感情もぶつけた。でも、死なれてみて、結局、僕もつながれていなかったんだと思う。未熟だったし、いま思えば僕も彼らとチョボチョボだったのだ。

 にもかかわらず、なぜ僕は酒に溺れて死ななかったのか……。もともと彼らのようにガブガブ飲めるほうではなかったというのもある。そして、幼いころから自分だけが頼りという生き方を強いられてきたのもあるように思う。

 彼らのうち日本人の2人は、いずれも地方出身だが、ともに名家に生まれ、幼少期、経済的には何不自由のない生活を送ってきている。ドイツ人の実家は知らないけれど、新聞社の特派員として要人たちにインタビューするくらいだから、やはりエリートなのだ。

 それにひきかえ僕は、戦後、自分の食うものは自分で手に入れるしかないような生活だった。高校の時に故郷を飛び出してからは帰る家すらない。せめて自分くらいは自分の味方をしないともう生きていけない現実。その中でたったひとつ身につけたのは「僕自身を信じるということ」だったのではないかと思う。



(2012年4月20日掲載)




  悔いのない人生を送りたいものである。そのコツがあるとすれば、「自分を褒める」「過去の自分に感謝する」。いろんな人の人生と向き合ってきてそう思う。


2017年03月24日