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アテナ映像

週刊代々木忠

アーカイブス023 なぜ人はわかり合えないのか?
  「幸せな家庭は同じ顔をしているが、不幸な家庭の顔はそれぞれ違う」という言葉がある。たしかに不幸をもたらす原因は、仕事、金銭、病気、不和……とあげれば切りがないけれど、つまるところ、その根っこにあるのは「人とわかり合えない」ことじゃないかと思うときがある。

 先日「愛と性の相談室」にやってきたのは、すでに離婚を視野に入れた女性だった。「父親との関係をちゃんと築けなかった」「男性に父親のような存在を求めてしまう」とメールにある。僕が彼女から聞いたのはこんな話だ。

 彼女が子どものころ、父親は自分の会社を倒産させたりして、しょっちゅう家を飛び出し、ゆくえ知れず。ある日、父親から電話がかかってくる。受話器から聞こえてくる声は、家にいたころとは様子が違っていた。子どもながらに、これがお父さんと話す最後になるかもしれないと思った。「お父さん、帰ってきて!」。ふつうの子だったら、そう言っただろう。でも、彼女には言えなかった。本当は言いたかったのに。

 彼女の中には、なぜお父さんを引き留められなかったのかという思いがずっと残った。聞けば、心の問題を家族同士が話すような家庭ではなかったみたいだ。あるとき、母親に「なんでお父さんは帰ってこないの?」と訊いてみた。「じゃあ、お父さんに訊いてみれば」が答えだった。物心ついたころから母親は仕事で留守がち。父親は不在。姉が1人いたが、ほとんど友達と出かけていて帰宅するのは夜遅く。家族がバラバラで、彼女はいつも独りぼっちだったのだ。

 そんな両親はやがて離婚する。その後、父親が再婚したと聞く。だが、彼女も大人になっていたから「今度会うときは、お父さんの葬儀のときだ」という覚悟はできていたらしい。

 その父の訃報が届いたとき、彼女は夫と2人で地方都市に向かった。とっくに覚悟はできていたはずなのに、いざ父の死に顔を見たとたん、感情が込み上げてきて号泣した。再婚した向こうの奥さんも、きっとびっくりしていたはずだと彼女は言う。でも、自分でも気持ちを抑えることができなかったのだと。

 父を葬(おく)って家に帰ってくるのだが、向こうでも帰宅してからも、夫からはやさしい言葉のひとつもなかったという。夫にとっては義理の、しかもとうに縁が切れたも同然の父親ではあるが、号泣する妻の姿を目の当たりにして、うまく関係を結べなかったからこその、その思いを、なぜ汲み取ってやることができなかったのだろう。たとえ「寂しいね」の一言でもあれば、彼女は救われたのかもしれない。

 僕は話を聞きながら「そういうことの積み重ねだよね」と言った。即座に彼女は「そうなんですよ」と答えた。父親の葬儀の件は一例にすぎず、こういう類(たぐい)のことがたくさんあって、もう彼女は心も体も夫を受け付けなくなっているのだろう。

 この話を読んで「彼女の気持ちがよくわかる」と思った女性は多いだろう。また男性は男性で、「わかろうとしないのは、お互いさまじゃないの?」と思ったかもしれない。かくも人は、なぜわかり合えないのだろうか。

 かつてこのブログでも、人は「思考ベース」「感情ベース」「本能ベース」のいずれかに分かれると書いた。相談に来た彼女は「感情ベース」だろう。ダンナさんは、彼女の話から察するに「本能ベース」のように思える。このように相手とタイプが異なれば、人はわかり合うのが難しくなる。

 たとえば、プロ野球の観戦に行ったとしよう。「思考ベース」の人間は「あそこで高めのストレートはないだろう」とか「5回満塁で続投させたのが、采配のミス」とか言う。とかく分析が好きなのだ。「感情ベース」の人間は声の限りに応援し、結果、タイムリーでも出ようものなら狂喜乱舞で盛り上がる。「本能ベース」の人間はプロの見せる神業的ともいえる技能に血をたぎらせる。まぁ、あくまでも例だが、僕が言いたいのは、同じ試合を観戦しながら、ベースが違えばぜんぜん違うものを見ているということだ。

 人間関係もこれと同様で、わかり合えること自体が不思議なくらいである。とはいえ、だから仕方がないと片づけるわけにもいかない。では、ベースの違う相手を選んでしまった場合、どうすればいいのだろうか。

 相談に来た彼女に僕はこう言った。「わかってもらおうと思うことを一回やめな。わかってもらおうとするんじゃなくて、あなたの意識のステージを上げるんだよ」。これはどういうことかと言うと、今のステージでは、前述のプロ野球観戦のように夫婦がお互い違う視点に立っている。しかし、意識のステージが上がると、それらを鳥瞰(ちょうかん)する視座が生まれる。つまり、相手が見ている風景も見えてくるのだ。すると、相手の考えていることを、自分のことのように感じる回路が開く。

 たとえば「あ、これはこの人の中の子どもの部分が、こんなスネ方をしてるんだ」と見えてくる。態度や口には出さなくとも、本音のところでは、ダンナさんが彼女に気づいてほしかった部分でもある。これまでだったら、ダンナさんのほうも彼女の反発を予想しているはずだが、見えてしまった彼女の態度は違ったものになる。ダンナさんは「やっと思いが通じた」と思うことだろう。

 意識のステージが上がっていないと「向こうが間違ってるのに、なんで私が」と思ってしまうが、ステージが上がれば相手の気持ちに自然と寄り添えるようになる。そうなって初めて、人はわかり合えるのではないかと僕は思うのである。


(2012年3月23日掲載)


 「素人発情地帯」に出演したある人妻は看護師をしていて、定期的に夜勤があった。彼女が留守の晩、夫は女を自宅に連れ込んだ。夫に浮気された揚句、それを問い詰めると「おまえには関係ないだろ!」と逆ギレされる。二人を知る友人たちから「理想の夫婦」と祝福されて結婚し、酒タバコ・習い事の禁止や12時の門限など、夫の言いつけを守り、よき夫婦であろうと努力した末の出来事だった。

 彼女は夫しか知らなかったが、「おまえには関係ないだろ!」の一言でそれまで張りつめていた糸は切れた。飲んで2時3時に帰るようになり、彼氏もできた。彼は彼女の体を「きれいだ」と褒め、彼女のイメージをギターで曲にして歌ってくれた。夫と離婚して彼のもとへ行こうと一大決心し、それを彼に伝えると、返ってきたのは「いや、俺には彼女がいるんだ」だった。

 ビデオに出るのは「これまでの生活に踏ん切りをつけるためだ」と言う彼女。夫からも恋人からも裏切られて人間不信になり、なかば捨て鉢とも言える出演である。当然ながら意識のステージはかなり低い。

 ところが、低かった意識のステージがビデオの中、3回の失神によって上がっていく。彼女の失神は「夫婦はかくあるべし」や「妻はどうあらねばならぬか」という社会性の死であり、自己の明け渡しである。それによって彼女は自分の人生を鳥瞰する。作品の最後に彼女が語った言葉をそのまま書き抜いてみる。

 「過去の自分というのは、なんかすごく浅ましいというか、醜いっていうか、なんか汚いっていうか。恥ずかしいね、今考えるとね。それも人間だって言えば人間なんだろうけど、でもそうすることによって逆に自分を痛めつけてるっていうか。醜い自分っていうのが、やっぱり損をするっていうか、幸せになりたいと思ってそうしたことが、逆に裏目に出ちゃって。なんか自分で苦しめて、自分で首絞めてるような感じが今は思うけど、でも今は本当に頭の中が空っぽで、ただなんか幸せです。すごく楽しかったし、なんか開放的っていうか、なんにもしなくてもニヤニヤしちゃう」

 「それだけ制約してたんだね。夫婦うまくやっていかなきゃいけないってことで、なんか逆のことやってたんだろうな。そういうことも今のあなたには、もう見えてるんでしょうね。きっとダンナさんと上手くいくでしょ」と僕が言うと、「どうでしょうかね、それはわかりません。わかりませんけど……」と彼女は笑った。

 上がった意識のステージは、ずっとそのまま高い状態でキープされるわけではない。なにかの拍子にまたドーンと落ちたりもする。けれども、高い状態のときに垣間見た真理はその人の中にずっと残る。だから、たとえステージが落ちても、あのとき気づいたがゆえの違いが、その後の人生を変えていくはずである。





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2017年07月14日