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アテナ映像

週刊代々木忠

アーカイブス063 死んだ男が残したものは
  昨年9月、長野に住む友人が急死した。名を湯本という。まだ59歳だった。湯本はずっと医者を信用していなかった。幼なじみである呉服屋の旦那が、亡くなる前日、湯本が横になって扇風機にあたりながら脂汗を流しているのを見て、湯本の母親に「お母さん、救急車を呼ぼう」と言ったら、「呼ぶなっ! 医者なんて俺は信じてないんだ!」と当の本人が鬼気迫る形相で言うので、結局、救急車も呼べなかった。

 僕が湯本と最初に会ったのは、昔なじみのカメラマンに事務所開きのお祝いを届けたときだった。真新しい事務所で、そのカメラマンは「愛染恭子で1本撮ったら」と僕にすすめた。僕のプロダクションにいた愛染が武智鉄二監督の「白日夢」に主演し、ちょうど話題になっていた頃の話である。

 僕とカメラマンのやりとりを湯本は横で聞いていた。彼も僕と同様、お祝いをカメラマンに届けに来ていたのだ。初対面の湯本に「何をしているんだ?」と訊いたら、「イベント関係を……」と答えた。当時デパートの屋上や遊園地では着ぐるみのショーが頻繁に行われていたが、いくつかのキャラクターの権利を湯本は持っていたようである。

 その数年後、湯本は僕にジャイアント吉田さんを紹介し、「サイコ催眠エクスタシー」を撮らせた。このシリーズは、それまでセルしかなかったアダルトビデオが初めてレンタルというシステムで世に出ていく第一陣であった。AVメーカー各社が安価で借りられるレンタルシステムに首を縦にふらないなか、湯本は東奔西走し、僕にも声をかけてきたのである。

 かつてこのブログで「YANNI TRIBUTE」を紹介したが、ヤニーを僕に教えたのも湯本だった。そのころ湯本はヤニーを日本に呼んで、姫路城でコンサートを開こうとしていた。その企画は実現しなかったのだが、ヤニーに限らず湯本の話の多くは規模がデカかった。ところが、それは話だけで、ほとんどが実現しない。取らぬタヌキじゃないが、金額だけなら1兆2兆の話をしょっちゅうしているから、みんなからは「豆腐屋」と呼ばれていたくらいだ。

 話だけで済めばまだしも、そこにはお金のやりとりも介在し、でも企画はいつしか頓挫していて、出した側にそのお金は戻らない。そんな不義理がだんだん溜まっていった。結局、湯本は東京にいられなくなり、亡くなる2年半ほど前、生まれ故郷の長野に戻った。

 湯本からは桃や蜂蜜が送られてきて、「一度、長野にも遊びに来てよ」と何度か電話もかかってきた。でも、彼は僕に対しても不義理をしていたので、ついぞ「行く」とは答えなかった。「俺は長野なんか行かないよ。おまえがまともになって、畑のひとつでも耕し、収穫して、ちゃんと地に足がついたら行くよ」と、僕はその都度、同じ答えを返していた。

 今回、新盆には間に合わなかったが、一周忌の墓参りに友人たち5人で長野に出かけた。湯本の実家は湯田中温泉の中にあった。泊まった旅館「あぶらや燈千」には客室に露天風呂があり、源泉掛け流しで湯があふれている。とてもいい湯だった。板長がわざわざ部屋まで挨拶に来てくれたのにはびっくりしたが、話を聞けば彼は僕のファンで、かつて湯本に頼んで僕のサインをもらったことがあると言う。

 夜には、幼なじみの呉服屋の旦那も来てくれて、湯本の思い出話に花が咲いた。そこで初めて知ったのだが、湯本のお祖父さんの代には、この湯田中温泉の源泉のほとんどを湯本家が持っていたという。それを湯本のお父さんと湯本がすべて売り払ってしまった。

 お祖父さんがあまりにも偉大で、地元ではどこに行っても、大地主であったお祖父さんを引き合いに出される。湯本はそのお祖父さんをどこかで超えたいとずっと思っていたのだろう。慶應大学に入学すると偽り、東京に出てきてからも学校には行かないまま、金だけを送らせた。しまいにお母さんが送金しなくなると、自分が勝手に源泉を売ったり、むちゃくちゃしている。あげくの果て、切る札ビラもなくなって、あちこちで不義理を重ねた。

 また、呉服屋の旦那はこんな話もしてくれた。朝市の場所があまりよくないので、湯本は「ここがいいんじゃないか」と言って、長野電鉄と交渉し、駅のすぐ横の広場に場所を移させたらしい。湯本のことだから「おまえんとこは、朝市にブドウとプラムを出せ」と半ば強引に始め、ひょっとしたらかすりも取っていたかもしれない。声をかけられたほうも断るに断れず、つきあいでしぶしぶ従ったのかもしれない。でも、仮にそうだとしても、湯本が亡くなり、結果的には自由に駅横の広場で商売できる形が残った。

 生前、湯本に「畑のひとつでも耕せ」とくり返し言ってきたけれど、彼は違う形でそれを実現させようとしていたのかもしれないと僕は思った。実は亡くなる2カ月ほど前、湯本はふらりと僕の事務所にやってきた。「助監督に映像のことで教えてもらいたいことがある」と彼は言っていたけれど、長野に戻って以降の再会はそのときが初めてであり、また生きている彼に会うのはそれが最後になった。

 なぜ湯本は、あの日なんの連絡もなく突然やってきたのだろう。口が達者で、うまい話に誘い込むのは誰よりも上手いくせに、その素顔は子どもがそのまま大人になったような、寂しがり屋で不器用な男。事前に「事務所に行く」と言えば僕から断られると思って、無理矢理、用事をでっち上げたのかもしれない。朝市の件でも「自分はこんなに頑張っているよ」と本当は伝えたかったのだろうか。

 湯本はみんなに自分を認めてもらいたかったのだろうと思う。たしかに彼はいいものを見抜く眼を持っていた。でも、詰めが甘いから、時の仏と場の仏が味方をしなかった。僕との長いつきあいでも、形になったのは「サイコ催眠エクスタシー」だけである。

 しかし、そのたったひとつで、僕は催眠を勉強することになり、それはその後、僕の作品全体に影響を与えた。また、このとき湯本が引き合わせてくれたジャイアント吉田さんは、今でも僕のかけがえのない友人だ。一緒に深夜まで酒を酌み交わした呉服屋の旦那も、挨拶に来てくれた板長も、こうして長野に墓参りに来た友人たちの何人かも、思えばみんな湯本がつないでくれた人間関係だったのである。


(2010年9月17日掲載)


 人に認められたいという気持ちは、みんな持っているものだと思う。もしも人間に欲がなかったら何もしなくなるのと同様に、承認欲求があるからこそ人は行動を起こし、努力もするわけである。

 ただし、「人に認められたい」というのと「人を認める」というのはギブアンドテイクの関係だ。このバランスが崩れ、承認欲求過多になったときには、いろいろと問題が生じる。

 つねづね感じていることだが、人から認められたいときには、真っ先に自分が自分を認めてやればいいと思うのである。文字どおり自己肯定感だが、これが育てばギブアンドテイクのバランスも自然と取れてくるだろう。
2019年03月15日