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アテナ映像

週刊代々木忠

彼岸と此岸
  彼岸(ひがん)と此岸(しがん)という2つの言葉がある。川をはさんで向こう岸が彼岸だが、仏教では彼岸が悟りの世界、対してこちら側、つまり此岸が僕たちの生きている悩み多き世界をさす。

 とつぜん何の話だ?と思われるだろう。これまでマインドフルネスについて何回か書いてきたが、僕自身、わかったようでよくわからない部分もあった。ところが、最近読んだ一冊の本がそのモヤッとした所を一気に解消してくれたのだった。山下良道著『「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える』(集英社)という本である。著者の山下さんは現在、鎌倉一法庵の住職をされている。東京外国語大学を卒業後、すぐに曹洞宗の僧侶となって修行を積んでこられた。

 山下さんの経歴の続きは後述するとして、この本の中で「彼岸と此岸」について興味深い例えが出てくる。あなたが映画を見ているとしよう。映画にのめり込むあまり、今自分が映画館の椅子に座っているのも忘れて、スクリーンの中の世界があたかも現実のごとく感じているとする。多かれ少なかれこういう体験はだれにもあるに違いない。

 さて、映画の中の世界(頭が作り出した架空の世界)と椅子に座っているという現実の世界、どちらが彼岸で、どちらが此岸だと思われるだろうか? 冒頭に書いたように、僕たちが生きている世界が此岸なのだから、椅子に座っている(と自覚している)ほうが此岸だろうと思う人も多いはずだ。

 ところが、山下さんは映画の中の世界がじつは此岸で、椅子に座っているほうが彼岸だと言う。いったいどういうことなのか? 僕たちが日常、現実だと思って生きている世界(此岸)は、頭が作り出した架空の世界、もっと言えば妄想の世界だということである。映画のストーリーから出たとき、初めて人は彼岸に気づく。

 では、どうしたら此岸から彼岸へ渡れるのだろう? 山下さんは曹洞宗の僧侶として18年間、只管打坐(しかんたざ)を続けてこられた。只管打坐とは自分の中に湧き起こってくる思い(thinking)をひたすら捨て去りながら座禅をすること。しかし、思いを捨てつづけても、結局、彼岸に渡れたかどうかは認識できない。

 その後、山下さんはアメリカに派遣され、禅センターにて只管打坐を教える。彼はアメリカでマインドフルネスに出合うのだが、違和感を抱く。なぜなら、マインドフルネスとは「気づくこと」だという。でも、気づくことも「思い」の一種だから、禅僧はその気づきも含めて思いを手放さなければいけないのではないかと。

 曹洞宗も含めて日本の仏教は大乗仏教(北伝仏教)である。一方、マインドフルネスの源は上座部仏教(南伝仏教)。山下さんはマインドフルネスの謎を解くべく上座部仏教の国ミャンマーに渡り、4年間修行される。その結果、マインドフルネスこそが、此岸から彼岸に渡る方法だと確信するのである。

 だとすると、「気づくこと」は「思い」ではないのか? それは捨て去らなくてもいいのか? という先ほどの疑問はどうなったのだろうか?

 山下さんによれば、マインドフルネスの「気づき」とは、只管打坐で手放すべき雑念レベルではないということがまずひとつある。しかも「私」は一人ではなく、二人いるというのである。マインドフルネスは、この「私の二重構造」を実感、認識できるのだと……。詳しくは次回お伝えしたい。
2019年03月22日