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週刊代々木忠

セックスは汚れなきものか?
  いかがわしいもの、淫らなものに対して、世間の風当たりは強い。これが宗教ともなれば、なおさらである。宗教においては「禁欲」が基本なのだ。ところが、さるお経の中では次のように説かれている。

 一、性交によってもたらされる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
 二、快楽を求める激しい欲望も、清浄なる菩薩の境地である。
 三、男女が抱き合うことも、清浄なる菩薩の境地である。
 四、男女が離れがたいと思う心も、清浄なる菩薩の境地である。
 五、抱き合って満足し、もう何でもできると信じ込む心も、清浄なる菩薩の境地である。
 六、欲心を秘めて異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
 七、性交によって悦なる快感を味わうのも、清浄なる菩薩の境地である。
 八、男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。

 これは『理趣経(りしゅきょう)』の中の「十七清浄句(じゅうしちしょうじょうく)」と呼ばれるものの一部である。性愛にまつわる様々なことを「清浄なる菩薩の境地である」とくり返している。これを読んだ人のなかには「どこぞの怪しげな宗教じゃないのか」と思う人もいるだろう。

 最澄と空海は同時代を生きた名僧だが、2人とも同じ時期に遣唐使として中国に渡っている。当時、最澄は時の権力者からの覚えもめでたく、すでに名声を得ていたものの、空海はまだ無名の学僧。

 前述の『理趣経』を最初に日本に持ち帰ったのは、最澄のほうだった。『理趣経』は密教の経典だが、最澄にとって密教は唐で学んだことの副次的な一部分に過ぎなかった。対して、空海は密教に照準を合わせて体系的に学び、その奥義をことごとく伝授されている。そして「この世のいっさいを遍(あまね)く照らす最上の者」を意味する「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の名号まで与えられた。

 のちに最澄は、空海に弟子入りすることになる。密教を会得するためだ。なぜそうまでして最澄は密教を学びたかったのだろうか? こんな背景がある。最澄の帰国後、彼を理解し庇護していた桓武(かんむ)天皇が病の床に就く。最澄は密教の秘法をもって治癒の祈祷を行うものの、天皇が崩御。最澄の名声が少なからず傷ついたまさにそのとき、中国から密教を正統に受け継いだ空海が帰国する。

 最澄は、空海から密教のいろいろな経典を借りて読んでいる。天皇を救えなかったという自責の念が拍車をかけたという面もあるだろう。ただ、自分も持ち帰っている『理趣経』については、その驚くべき内容がとても理解しがたく、『理趣経』のいわば参考書的な『理趣釈経(りしゅしゃくきょう)』をぜひとも読まなければと考える。ところが、『理趣釈経』は唐においてもトップシークレットで、空海でなければ入手できなかっただろうと言われるものだ。

 一方、空海にしてみれば、かねてから密教の奥義は言葉では獲得できないと思っていた。その思いは積み重なり、「『理趣釈経』を貸してほしい」という申し出に対して、ついに「言葉はカスです。それに頼れば真実を見失う。そんなことをするのは愚か者だ」という趣旨の手紙を書いて貸与を断り、2人の関係は終わってしまう。

 『理趣経』は、現在でも真言密教において朝夕必ず読まれる聖典だそうである。人間の営みは本来清浄なものであると説く『理趣経』は、性愛のみが対象になっているわけではないけれど、全十七段あるなかで「十七清浄句」はいちばん最初(初段)に出てくる。

 『理趣経』は額面どおりに受け取ってしまうとアブナイ。やはり、悟りを開いた者が理解できるお経なのだろう。たとえば、かつて「ピッチャーゴロでランニングホームラン」という話を書いた。「ザ・面接VOL.159」に出たOLのあかり(36歳)は、体験人数が160~170人で、「満足するには1日で3回男を替える」そうだ。撮影現場でも「若い人がいい」と言い、「シミとか、シワとか、メタボとかが出てきたら、やなんですよ」と。男の性器を「ブツ」と呼ぶ彼女にもしも「十七清浄句」を読ませたら、自己流の解釈でますます増長するか、まったく理解できなかったかのどちらかに違いない。

 それまで出演した現場ではお姫様扱いされてきた彼女が、面前で隊長に怒鳴られ、ムクれ、取り残され、挙句の果てには僕に撮影打ち切りまで宣言されて、もう何が何だかわからない心境でウルフとセックスをし、ウルフに甘え、ウルフと溶け合い、つながったのだった。たとえ束の間ではあっても、二元性を超越したであろう。そのときのあかりが「十七清浄句」を読んだなら、きっと腑に落ちるところがあったのではないか――僕はそう思うのだ。

 正木晃『現代語訳 理趣経』(角川ソフィア文庫)の中に、こんなくだりがある。〈現代における『理趣経』研究の筆頭に位置する松長有慶師(高野山真言宗元管長)は、「自己と他者の区別を捨てた状態」こそ「清浄」の真の意味だと述べています〉。
2019年05月17日