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週刊代々木忠

続・セックスと悟り
  前回は、インドで仏教が密教となって生き延びようとしたところまで書いた。で、生き延びられたのかというと、13世紀初頭、ヒンドゥー教とイスラム教によって滅ぼされてしまう、政治力と武力でもって。

 では、密教はこの世から消滅してしまったのだろうか? 空海が唐に渡り、密教を持ち帰ったのが9世紀初頭。真言宗はもちろん今でも健在だし、日本に密教はある。ところが、空海が持ち帰ったのは実は中期密教で、「タントラ」が取り入れられるのは後期密教なのだ。

 いや、空海が亡くなった後でも「タントラ」が伝わる経路はあっただろうと思う人もいるだろうが、これは中国で止まっている。長い間、中国では儒教が大きな影響力を持っていた。儒教が「タントラ」を受け入れない。なので、中国には広まらなかったし、日本にも来なかった。結局、概念としてその片鱗がうかがえるのが、以前に紹介した『理趣経(りしゅきょう)』くらいである。

 となると、後期密教の「タントラ」はどこに残っているのか? インドで仏教が消滅する前、その末路を予見した僧侶たちは新天地を求めて、チベット高原へと旅立っていった。こうして後期密教の命脈はチベットへと継承されてゆく。

 歴代のダライ・ラマも所属する、チベット密教最大の宗派がゲルク派である。ゲルク派の開祖ツォンカパ(1357年~1419年)は、ブッダ以来、2500年の仏教史において“最後の巨人”とも称される。そのツォンカパが、仏教のあらゆる教えや修行法のなかで頂点に位置すると評価したのが、『秘密集会(ひみつしゅうえ)タントラ』という経典である。その特徴は、解脱に至る方法として性的ヨーガ(性行為のあるヨーガ)が採用されている点だ。

 ゲルク派の修行には、「生起次第(しょうきしだい)」と「究竟次第(くきょうしだい)」という2つの段階がある。ツォンカパは「生起次第」として49の修行プロセスを記している。そのなかの1つを紹介すると、「宝生如来(ほうしょうにょらい)として明妃(みょうひ)と性的ヨーガを実践する」というのがある。如来とは仏の最高位だが、宝生如来は財宝を生み出して人々に福徳を授ける仏。明妃は女性の尊格。如来と同格とも、菩薩と同格とも、いろいろな説がある。いずれにしても、自分が宝生如来になって、女性の尊格とセックスせよとなる。

 「究竟次第」では、性行為にて極限的な快楽を追い求めながらも、同時に極端な呼吸コントロールも行ない、死に瀕することも少なくなかったようである。ただし、前述の「宝生如来として明妃と」もそうだが、ツォンカパは、性的ヨーガの有効性を認めながらも、実際の行為は禁止していた。

 えっ、実際にはやってなかったの!? という話だが、これは仏教の戒律が僧侶の性行為を禁じているからだ。悟りを得るためのセックスなのに、それを行なえば戒律を破ってしまうというジレンマ。では、どうすればいいのか? ツォンカパは観想(かんそう)としてのみ、この修行を行なうことを求めたという。観想とは要はイメージなのだが、単なる想像や妄想とは異なる。修行者の霊的な力によって女性パートナーを出現させ、彼女とセックスせよ、というわけである。

 「なんだ、イメージの相手とするだけか」とか、「霊的な力で出現させるってどういうことだ」とか思う人もいるだろう。ツォンカパは禁じたが、これまで行なわれてきた性的ヨーガがむろん全部イメージだったわけではない。生身の相手と実際のセックスをした記録はたくさん残っている。たとえば、当時ゲルク派を離れ、他宗派に移って実践した僧侶もいたし、近年では(といっても1970年代だが)、ラジニーシがインド・プーナのアシュラムで試みた「タントラ・グループ」がそれである。

 しかし、実際のセックスでもイメージのセックスでも、悟りに至る可能性は同じではないかと僕は思うのだ。このブログの読者のなかには、催淫テープを聴いている女の子が何もされていないのに感じ出し、イッてしまう光景をご覧になった方もいるだろう。ただ、だれが聴いてもすぐにそうなるわけではなく、とりわけ不感症に近い子には事前に呼吸法が不可欠である。

 最初はゆったりした腹式呼吸(長息)から入り、徐々に短息や性器呼吸など、さまざまな呼吸法を行なってもらう。短息などの激しい呼吸では、その子の精神を危機的な状況にさらすこともある。大袈裟な、と思う人もいるかもしれない。短息をしていると思考が飛ぶ。思考が飛べば、自分を自分たらしめている枠が外れる。外れると、自分がどうなってしまうかわからない不安が湧いたり、過去のトラウマがよみがえったりする。そうなったとき、僕はその子の手を握ったり、「大丈夫だよ」と声をかけたり、長息に戻させたりする。

 タントラにおいて呼吸は要諦と思われるが、思考が機能し、客観的かつ冷静に分析をしていたのでは、催淫テープにも入っていけない。自分を自分たらしめている(と本人が思っている)枠からも自由になってテープを聴いたとき、女の子の目の前には男が現われ、その男とするセックスは実際のセックスと差異がない。いや、往々にしてそれ以上の場合もある。イッたことがないと言う女性が、催淫テープで初めてオーガズムを体験することもたびたびあったのだから。

 なぜそのようなことが起きるのか? 彼女たちは日常的な意識から変性意識状態になっていたからである。このことからも、修行者が変性意識状態に至ったとき、宝生如来として明妃と交わる性的ヨーガも、きっとリアリティをもって実践できていただろうと思うのである。

 もともとセックスは悟るためにあるわけではない。快を得たい、その結果として子孫が残るというのがセックスだ。ところが、セックスによっても悟れるということに、遠い昔、だれかが気づいた。というか、たまたまそういう現象が起きた。宗教的な表現を使えば、それは「神と一体となった」も同然だった。

 ああなるためにはどうしたらいいのかを探求したすえにタントラが生まれたのではないだろうか。考えてみれば、瞑想にしても滝行にしても、悟りを得る方法はいろいろあるけれど、その修行によって変性意識状態に至るという点ではセックスも同じだと僕はあらためて思うのである。


*参考文献
ツルティム・ケサン、正木晃著『増補 チベット密教』(ちくま学芸文庫)
松長有慶著『密教』(岩波新書)
宮元啓一著『ブッダが考えたこと』(角川ソフィア文庫)


(「週刊代々木忠」は夏休みをいただきます。次に読んでいただけるのは9月6日(金)になります)
2019年07月26日