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週刊代々木忠

アーカイブス073 なぜオーガズムは快楽の延長線上にないのか?
  ブログで「オーガズムは快楽の延長線上にあるのではない」と書いたら、ライブドア版にコメントを寄せてくれた6名中3名の方から「ココが分かりませんでした」「私も、快楽の後にオーガズムがあると思ってました」「この言葉はわかるような、わからないような」というご指摘。ってことは、結局のところ、多くの人が「よくわからん」ということだろう。

 なので、今回は僕なりにそこをもう少しフォローしたいと思った。一般的に多くの人たちは、オーガズムを“快楽の極致”ととらえているはずだ。もし“快楽の極致”ならば、快楽の延長線上にオーガズムはあることになる。

 ところが、オーガズムを体験した直後、女の子にその感想を求めると、次のような言葉が返ってきた。

 「相手の体が自分の体」(小沢なつみ)
 「人間の手と手は合体しないけど、水とジュースは混ざり合うでしょ」(栗原早記)
 「男って私。きょうまで私は自分を敵にまわしていた。男の人も女の人も、私なんだ。私だから一体になって当然なんです」(姫ゆり)
 「日比野さんとひとつになりたくてなりたくて、しょうがなくて、すごくじれったくって……。そしてひとつになった瞬間というのが確かにあったんです。そのとき私は私であり、日比野さんだった」(みなみ)

 時間も場所も異なるけれど、彼女たちの言葉には共通項が見いだせる。それは“一体感”だ。だが、ここには「ふだんの何十倍も気持ちいい」とか「こんなに気持ちいいとは思わなかった」というような快楽のカテゴリーに属する言葉は見当たらない。

 男優でも、オーガズムを体験した加藤鷹、青木達也、平本一穂はみんなその直後に涙した。それは崇高な感情とでもいうべきものに打たれて溢れ出してきた涙だった。現場でファインダーを覗いていた僕も涙が止まらなかった。今にして思えば、僕の中のミラーニューロンが反応していたのだろう。

 このように女の場合も男の場合も、現場でオーガズムを目の当たりにすればするほど、それは快感とは別のレールにあるように思える。あるいは、快楽の極致に達したとき、自己の明け渡しが起きて別のチャンネルへ移行するのかもしれないが、いずれにしてもそれは快楽とは違うレールなのだ。

 オーガズムは、体験してみないことには、なかなかわからない。だが、ひとたび体験すれば、これまでの快感とはまったく違うものだと体験した者たちは言う。そして、自分の立ち位置やものの見方も変化し、人を慈しみ、癒す者へと変わってゆくのである。


(2013年1月18日掲載)


 雑誌のセックス特集にしても、セックスのハウツー本にしても、なぜ「オーガズム=快楽の極致」という前提で書かれているのだろう。経験の浅い人が読めば、当然ながらセックスとはそういうものだと思い込んでしまう。

 セックス特集やハウツー本を書く側には、オーガズムとはこういうものだという概念があり、それにもとづいて、そうなるためにはどうしたらいいかということを書いているはずである。

 かつてこのブログでも書いたが、オーガズムには3つあると僕は思っている。簡単に言えば、肉体的な快感が「小さなオーガズム」、心と心が溶け合うような悦びが「中くらいのオーガズム」、三次元的なものを超越したところの立ち位置に自分が行ってしまうのが「大きなオーガズム」。

 でも、セックスのテクニックを書いている人たちは、「中くらいのオーガズム」や「大きなオーガズム」を自ら体験したり、体験しないまでもそういう場面に立ち会ったりしたことはないのだろう。もしあれば、きっとそれを書いているはずだから。

 たしかに「どこをどうやって攻めればいい」という話はわかりやすいし、内容が具体的なぶん効果もありそうに思えてしまう。「大きなオーガズム」はタントラの話でも書いたように、二元性の超越という意味では、ひとつの悟りとも言える。だが、一般の人たちはセックスに、感動や気づきや、ましてや悟りを求めているわけではない。

 だから「大きなオーガズムを体験するべきだ」とは言わない。でも、心と心が溶け合う歓びは、ぜひとも味わってほしいとお節介ながら思うのである。
2019年09月27日