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アテナ映像

週刊代々木忠

日本は何を失ったのか?
  今「ザ・面接 BEST」という総集編を編集しているのだが、あるシーンに目がとまった。「ザ・面接VOL.155」の幕間にあたるブレイクタイムでの会話である。

 セックスを終えたエキストラA(主婦・ネームプレートには41歳とあるが、実年齢は38歳だと本人が打ち明ける)。僕は彼女に話しかけた。
 代々木「今のダンナさんとは、ほとんどしないの?」
 エキストラA「そうですね、向こうが性欲ないんで、こっちはべつに他で満たせばいいかなみたいな」
 代々木「う~ん、そういう時代か……」
 エキストラA「寂しい時代ですよ」
 男優たちが笑う。
 代々木「実感やなぁ」
 エキストラA「そうですね。だれもが寂しい時代です」
 男優たち、笑いながら何度もうなずく。
 代々木「だれもが寂しい時代。は~、なんでこうなったんだろうね? ちょっと人生語ろうや」
 エキストラA「そうですね……やっぱ、みんな自分のことしか考えなくなっちゃったからじゃないですか」
 代々木「う~ん」
 ここまで話を聞いていたエキストラB(看護師・26歳)がしみじみと、「みんなカツカツで、余裕がないのかな……」
 エキストラC(元職ガールズバー勤務・22歳)「ママ~って言いたい」
 代々木「ママ~って言いたい?」
 エキストラC、大きくうなずく。

 これだけの何気ない会話である。すでにセックスで自分をさらけ出した主婦は、ブレイクタイムでも飾らない言葉でおそらく本心を口にしている。前述のとおり彼女は38歳。まだ若い。看護師をしているBはそれより1回り下。ガールズバーに勤めていたCはさらに若い。

 自分のことで精いっぱいで他者のことまで考えられず、でも、それをよしとしているようで本当は寂しい。こういったことは僕らの世代であれば、今の時代をそのように感じるものの、若い子たちの時代観はまた違うのではないかと僕は考えていた。でも、そうではなかった。ふだん口にはしなくとも、孤独を埋めるものが圧倒的に足りてないのではないか、僕はそんな気がしてきた。

 いちばん若いCの「ママ~って言いたい」の真意は訊かなかったけれど、その前が「みんなカツカツで、余裕がないのかな」を受けて出てきた言葉なので、いっぱいいっぱいの状況下で「お母さんに甘えたい」という願望だろうか。人に弱みを見せられなくなってしまった世の中で……。

 3年半ほど前に一度紹介したが、渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)という本がある。どんな本なのかあらためて記すと、幕末・明治維新に来日した外国人が日本について記した膨大な文献をもとに、今とは異なる日本の、そして日本人の姿を浮かび上がらせた名著だ。

 ひと口に外国人といっても、この本で取り上げられているのは、使節団、調査団、貴族、軍人、医師、学者、探検家、詩人、画家などなど多岐にわたる。しかも、彼らのほとんどは、日本に着くまで複数の異国を見てきており、単に自国と日本を比較したものではない。『逝きし世の面影』の中から彼らの言葉をいくつか紹介しよう。

 日英修好通商条約を締結するために来日した使節団の伯爵秘書オリファントの言葉から。

 〈「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」〉

 個人が犠牲になっていた当時は、個人主義が叫ばれる現代とは対照的であり、にもかかわらず、各人が幸福で満足そうに見えるというのも、現代とは真逆に思えてしまう。

 では、当時の日本人がどのように幸福そうなのかを引用してみる。

 〈「話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」〉は、オイレンブルク使節団報告書の著者ベルク。

 〈「彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」〉は、工部大学校の教師を務めた英国人ディクソン。

 僕たちの祖先はかくも陽気で愉快だったのだ。また、こんな一面にも視線が注がれている。

 〈「家は通りと中庭の方向に完全に開け放たれている。だから通りを歩けば視線はわけなく家の内側に入りこんでしまう。つまり家庭生活は好奇の目を向ける人に差し出されているわけだ。人々は何も隠しはしない」〉は、オーストリアの長老外交官ヒューブナー。

 〈「錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってはならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気づいてそれを持って来たが、また今度は、サンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た」〉は、大森貝塚を発掘したモース。

 開けっ広げな生活と礼節が記されている。僕はこれを読んだとき、小銭があっても盗ったりしないのは、召使いには召使いの誇りがあったからだろうと思った。ひいてはそれが日本人としての誇りだったはずだと。

 今はどうだろう。自分のプライバシーを尊重するがあまり、家のみならず心にも戸を立て、鍵をかけ、それでも自分の権利が侵されないかどうか、僕たちは気にしながら生活していないだろうか。

 『逝きし世の面影』には「子どもの楽園」と題して一章分もうけられている。

 〈「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」〉は、フランス海軍の一員、デンマーク人のスエンソン。

 〈「イギリスでは近代教育のために子供から奪われつつあるひとつの美点を、日本の子供たちはもっている」「すなわち日本の子供たちは自然の子であり、かれらの年齢にふさわしい娯楽を十分に楽しみ、大人ぶることがない」〉は、初代駐日英国公使オールコック。

 今は外で子どもたちが遊ぶ姿を見かけることも減ったが、かつては家の外が遊び場であり、ある意味、街は彼らのものだったのだ。また、子どもに関してはこんな指摘もある。

 〈「家庭教育の一部は、いろいろなゲームの規則をならうことである。規則は絶対であり、疑問が生じた場合は、言い争ってゲームを中断するのではなく、年長の子供の裁定で解決する。彼らは自分たちだけで遊び、たえず大人を煩わせるようなことはしない」〉は、イギリスの旅行家・探検家のバード。

 同様のことを民俗学者の赤松啓介さんからも聞いたことがある。子どもたちには彼らだけの独立した世界があり、大人たちもそれを尊重し、干渉はしなかったのだ。

 ここに紹介したのは本のごくごく一部にすぎないが、当時の日本人が今より大らかで、心に余裕があったのはわかる。この本は懐古趣味やノスタルジーで書かれたのではない。当時のマイナス面もマイナス面として記されている。でも読んでいて僕は、ああ、この時代に生きたかったなぁと思ってしまった。

 この本には、現代の僕たちはどうするべきか、といった処方箋は綴られていない。しかし、著者の「みんな、大事なものを失っているよ!」という心の叫びは行間から聞こえてくるのだ。時計を逆に回すことはできないが、かつてこういう日本があったと気づくことから、わずかずつでも何かが変わってくるような気がしている。
2010年02月28日