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週刊代々木忠

個人・世間・社会
  これまでブログや本で「本能・感情・思考」という3つのオクターヴについて書いてきた。人が何かを思ったり、それを行動に移したりする際、この3つのいずれかがベースになっている。

 3つは順に「個人・世間・社会」に対応しているのではないかと、近ごろ僕は考えるようになった。本能が「個人」、感情が「世間」、思考が「社会」といった具合に。

 ここまで読んで「世間」と「社会」って同じじゃないのか?と思う人もいるかもしれない。「個人」は1人1人のことだから混同することはないが、その個人が暮らしている場を「世間」と言っても「社会」と言っても間違いではない。

 しかし「世間」と「社会」には概念的な違いがある。たとえば「渡る世間に鬼はない」「世間様に顔向けができない」とは言うけれど、「渡る社会に鬼はない」とか「社会様に顔向けができない」とは言わない。逆に「あの人は社会性がない」「企業には社会的責任がある」とは言っても、「世間性がない」「世間的責任がある」とは言わない。

 「世間」は人とのつきあいが大事であり、「社会」はルールや規律が重要になる。「世間」には合理性では割り切れないところがあるのに対し、「社会」は合理的にできている。

 だから「世間」は互酬性、つまり人から何かをもらったり、厚意を受けたりすれば、お返し・恩返しが生じる。でも、それは多分に気持ちの問題でもあり、これをしてもらったから、必ずこれで返さなければならないといった明確な基準があるわけではない。

 一方、「社会」のほうはもっと厳格だ。気持ちが伝わればいいというような曖昧さはなく、売買における値段のように、労働内容と給料があらかじめ決められているように、いわば契約の関係である。

 先ほど書いた「世間様に顔向けができない」という言いまわし自体、今はほとんど聞かれなくなった。それはかつて存在した「世間」がなくなってきているというのも一因ではないかと思う。そのぶん「社会」はどんどん拡大している。

 たとえば、痛ましい子どもへの虐待は、地域のコミュニティーが健在だったころには、今ほど起こらなかったはずだ。もしも隣で怒鳴る声や物が壊れる音がすれば放ってはおけず、「おいおい、そこまで言っちゃあ、この子も立つ瀬がないよ」と介入し、同時に親の愚痴を親身になって聞いてやることで、ガス抜きだってできていただろう。

 夫婦喧嘩をすれば、それを諌(いさ)めたり諭(さと)したりしてくれる人が出てきて、結果、離婚を思いとどまったというケースもたくさんあったはずだ。つまり、これが「世間」だと思うのである。

 ときに排他性も秘めているけれど、集団主義的な「世間」に対して、「社会」は平等という前提の上に成り立ち、個人主義的である。個人の権利が保証され、それが脅かされれば人は黙っていない。セクハラ、パワハラ、モラハラなど、いろいろなハラスメントが発信されるのも、そこが「社会」だからだ。

 「世間」と「社会」、どっちがいいという話ではない。どちらも必要なのである。しかし「世間」がなくなっていけば、恋愛が起きにくい。オーガズムもまず起きないだろう。地域のコミュニティーといった物理的な距離のみならず、心が身近な人たちと互いに認め合い、支え合う関係の中で、喜びや悲しみを共有できることこそが、いちばんの幸せなんじゃないかと僕は思う。

 ちょうどこの原稿の想を練っていたとき、菅義偉官房長官(当時)が自民党総裁選に立候補し、「自助・共助・公助」と書かれたフリップを手に「これが国の基本だと思っている」と語った。菅さん曰く「まず自分でできることは自分でやる、自分でできなくなったら家族とか地域で支えてもらう、それでもダメなら国が責任をもって対応する」と。

 これを見た人になかには「順番が違う」とか「政府の責任逃れだ」という批判もあったようだが、「自助・共助・公助」は「個人・世間・社会」にまさしく合致していると僕は思った。「世間」で助け合っていたものが失われつつある今、それに代わるものを制度が作っていない、要は追いついていないと感じていた。「自助・共助・公助」がバランスよく機能するよう、菅さんには行動を起こしてもらいたいと心から願っている。
2020年09月25日