年齢認証

あなたは18歳以上ですか?

ここから先は、アダルト商品を扱うアダルトサイトとなります。
18歳未満の方のアクセスは固くお断りします。

閉じる

アテナ映像

週刊代々木忠

孤独の中で前を向く
  ビデオに移って40年、ピンク映画の時代から数えれば54年になる。いろいろなことがあった。でも真っ先に思い出すのは「日活ロマンポルノ裁判」である。この裁判について書いたことはあるけれど、主に社会的な側面だった。今後書くこともないだろうから、「どんな裁判だったのか?」にふれつつ、「なぜ真っ先に思い出すのか?」を綴ってみたい。

 日活ロマンポルノの4作品「愛のぬくもり」「恋の狩人 ラブ・ハンター」「OL日記 牝猫の匂い」「女高生芸者」が猥褻図画公然陳列罪容疑で起訴された裁判である。それまでにもピンク映画は存在したが、日活という大手がポルノ映画へ路線変更するにつけ、見せしめとして灸を据えておきたいという検察側の思惑があった。

 「芸術か? 猥褻か?」「そもそも猥褻の定義とは何か?」がこの裁判の争点だが、多くの文化人や各方面の専門家をも巻き込んで、裁判は1972年から80年まで足かけ9年に及んだ。僕が34歳から42歳までである。

 裁判は毎月2回開かれた。30代半ばから40代初めといったら、人生の夏と呼んでもいいような時期である。青臭さからは卒業し、老いにはまだ遠い。仕事でもプライベートでも脂の乗った季節のはず。その季節を僕は裁判に明け暮れていた。4作品の監督と製作側の人間がそれぞれ訴えられたのだから、僕1人だけが重荷を背負ったわけではない。

 1人で背負ったわけではないのだけれど、仲間であるはずの被告たちからは除(の)け者にされていた。「渡邊(僕の本名)さえいなければ、もっとレベルの高い文化闘争になるのに」と。他の被告たちは名の通った大学を卒業していたが、僕は高校中退の元ヤクザだ。彼らは「分離裁判にしろ!」と言う。僕を切り離し、別々の裁判にしようというわけである。実際にはそうならなかったので、疎外された状態がその後も続くことになった。

 先に、4作品の監督と製作側の人間がそれぞれ訴えられたと書いた。言ってみれば被告のペアである。ところが僕にはペアがいなかった。僕がプロデュースした「女高生芸者」の監督は、取り調べの時点で「私はやりたくなかったけど、言われてやったんだ。あれは自分も猥褻だと思う」と容疑を認めてしまっていた。「認めれば、おまえは起訴しないから」という検察の手口にまんまと乗せられて……。監督が寝返ったのだから、他の被告にとってはいっそう「渡邊を外そう!」なのである。彼らの立場からすれば当然の主張でもあった。

 法廷でも検察側からいちばん厳しく責められたのは僕だ。学歴や経歴から最も落としやすいと値踏みされ、標的にされたのだ。当時、世間もこの裁判には注目していたから、新聞は毎回書き立てる。僕は法廷の中だけでなく、全国の晒(さら)し者だった。

 裁判が始まって3年が過ぎた頃、長女が生まれる。その子は生まれて4日目に亡くなった。女房が妊娠中毒症にかかり、早く出さないと母体が危ないと言われていたから、その子も決して元気な子ではなかったのかもしれない。

 ロマンポルノを撮っていたとはいえ、僕の給料はたかが知れていたし、裁判にかかる費用は膨らんでいく。弁護士費用をつくるため、女房は妊娠5カ月まで映画に出演し、出産までの1年間のうち270日は舞台に立っていた。

 けれども、妊娠中の彼女を苦しめていたのは仕事ではない。それは僕の浮気だった。女房はなにも言わなかったけれど、「私がこんなに頑張っているのに」と何度も唇を噛みしめたことだろう。

 女房を病気にしたのも、娘を死なせたのも、僕のせいだった。心が押し潰されそうになる。被告たちから仲間外れにされるのも、検察に集中砲火を浴びるのも、全部オレのせいか? その思いは、罪の意識として僕の中に根を下ろした。

 八方ふさがりの中で、僕はどうしたか? 自分で自分を赦(ゆる)すことにした。「なんて身勝手な男なんだ」と読んでいる人は思うかもしれない。社会的な通念や倫理観からすれば赦されることではない。でもよい悪いではなく、そうしなければ、その先、生きていけなかった。僕の味方は僕しかいなかったのだから。

 裁判には被告側の証人として多くの文化人や専門家が証言台に立った。そのなかの1人に石渡利康さんがいる。国際法学者の石渡先生は海外の大学にも学び、性を世界という視座から語り得る人だった。とりわけスウェーデンにおける性の考え方は、人生に幸福をもたらすものとして全肯定されていた。片や、僕らは性をありのまま表現することが犯罪か否かで争っている。この落差に僕は愕然とし、目を開かされたのだった。それは裁判の勝ち負けよりもずっと魅力的で、やっと僕は前を向けたんじゃないかと思う。

 私生活では長女の死から2年半後に次女が生まれた。その子が僕にとっての光となった。最初の子を死なせたという罪の意識から、次に生まれた娘を僕は溺愛した。そして罪の意識は、よき父であるにはどう生きるべきかという問いをいつも僕に突きつける結果となった。

 高裁の無罪判決に対して、検察側が上告を断念したことで裁判は幕を閉じる。検察側が負けたのである。僕がビデオに移ったのはその翌年だ。石渡先生からは裁判を離れても、世界の性についていろいろ話をうかがった。先生の話に僕は性の可能性を強く感じ、それを見極めたい欲求がビデオを撮る原動力になっていった。娘に対してよき父でありたいという思いも、作品づくりに影響を与えた。ビデオに出演する女性たちがセックスを通して何かをつかみ、それまで抱えていた荷物を少しでも軽くできるのならばという思いでここまで続けてきた。

 僕にとって日活ロマンポルノ裁判はつらい思い出ではあるけれど、そこで学んだのは自分が嫌になるような逆境にあっても僕が僕の味方であることの意義だった。裁判の前と比べて多少なりとも僕は成長していたのだと思う。


2021年09月10日