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アテナ映像

週刊代々木忠

挿入できない女〈番外編〉
 


 前回・前々回と「ようこそ催淫(アブナイ)世界へ 13」の撮影エピソードを書いてみた。そこではふれなかったが、2日目の撮影現場には、実は珍しいお客さんがいらしていた。

 このブログの「香港珍道中」で紹介した香港大学の王向華先生とその教え子のクレラさんだ。社会人類学者である王先生は、オックスフォード大学で博士号を取得し、いま香港大学では文学院学院長をされている。彼らがなんのために撮影現場に来ていたのかは、あとで書くことにしよう。

 撮影が終わって、女の子や男優、スタッフたちが帰ったあと、きょうはここに泊まっていく予定の王先生とクレラさん、ジャイアント吉田さん、鬼闘監督、アテナ映像ゼネラルマネージャーの折田が残った。僕たち6人は囲炉裏を囲んで酒をちびちびやりはじめた。そこで、王先生に初めて現場を見た感想を訊いてみた。

 王先生は「休憩時間に、監督が『後半は、前半とパートナーを変えたいか?』と訊いたとき、女の子たちは『もっと愛を深めたいから、パートナーは変えない!』と言ったにもかかわらず、1人の女の子は男優に体をさわられて感じてしまい、結局パートナーではない男優とセックスしてしまったのが、ものすごく猥褻(わいせつ)だった」と答えた。それを聞いて、かなり内面を見ているなぁと僕は思った。

 翌日、ケヤキの葉が風にそよぐテラスで、僕たちは軽い朝食をとりつつ、おしゃべりをしていた。すると、王先生がこんなことを言い出した。「代々木さんは多重人格みたいだ」。僕はこれまで人から一度もそう言われたことはない。言われたことはないが、自分の中ではひょっとしたらそうかもしれないと思っていたのだった。

 どういうことかといえば、僕の場合、記憶の一部が欠落しているということはないので、人格が乖離してはいないと思う。だから、これまで僕が接してきた多重人格の人たちとはちょっと違うのだが、でもふつうの人たちとも違うよなと僕はずっと思っていた。

 それはこんなイメージだ。人には確かにいろんな面がある。だが、それを真上から俯瞰(ふかん)して見たら1つにまとまって見える。ところが、僕は真上から見ても、いろんな僕があっちこっちにはみ出して見えるのである。

 前の晩、美咲に呼吸法を行っているとき、このままいくと人格の乖離が起こるのではないかと思ったことは、前々回のブログに書いたけれど、王先生から期せずして自分自身のことを指摘された僕は、その晩、思わずわが身をふり返っていた。

 ふつうの人は高校や大学を卒業して社会に出ていくわけだが、どんな職業に就くかはその人なりのイメージを持って自分の人生を決めてゆく。むろん希望どおりの職に就けるとは限らないけれど、それでも第2希望・第3希望の業種や職種がどういうものであり、自分がそれでいいのかどうかくらいは考えて一歩を踏み出すに違いない。転職もまたしかりである。このように人生を歩んでいけば、これまでのステージの上に次のステージが重なり、また、これまでやってきたことの何かが次での糧(かて)となって、1つの人格が形成されていくように思えるのだ。

 ところが僕の場合は、高校時代のある日、小倉警察副署長の倅(せがれ)と喧嘩をして大怪我を負わせ、小倉にいられなくなって、大阪に逃げた。着いた大阪で職安に行き、紹介された花屋に住み込みで入った。副署長の倅と喧嘩をするまで、自分が明日にも大阪で暮らすことになろうとは、ましてや不良の自分が花屋に住み込みで働くなどとは想像だにしていなかった。さらに、花屋での生活は、仕事のみならず立ち居振る舞いに至るまで、小倉時代に培ってきたものはまったく通用しなかったのである。

 5年後、小倉にいる妹が急病になって帰省したのをきっかけに、僕は極道の世界に入ることになる。大阪で花屋の仕事や華道については多少学んだものの、それが極道のいろはに役立つはずもなく、またなにもかも1から構築していかなければならなかった。

 その7年後、カタギになり、ピンク映画の世界に入った。そこもまた、それまで身につけたものがまったく通用しない世界だった。映画の方法論を学んでいるわけでもない僕は、見よう見まねで自分の思うように撮ってきた。先輩たちからは「映画的にこのカット割りはない」などとよく言われたものだ。僕は悔しいから「面白ければいいんだろ」と言うしかなかったのだが。

 このように僕は、過去の経験やルールや人間関係が役に立たない次のステージで、いつも1から出直すしかない人生を送ってきた。思えばそれは、幼児期にすでに土台ができあがっていたのかもしれない。僕は3歳で母を亡くしている。父が仕事で別の土地に行くのも重なり、親戚の家に預けられた。そこでいじめられていたわけではないけれど、それまで母に注がれていたのと同等の愛を、親戚の家に求めることは許されなかった。幼いながらも、自分の気持ちを切り替えざるを得なかったのだと思う。

 そんな生活が終わったのは、終戦と同時に家を出ていた父が帰ってきたときだった。ただし、新しい母をつれて。終戦は価値観の大転換をもたらした。もちろん僕に限った話ではないが、日本という社会に昨日とは異なる今日がやってきていた。僕はといえば、暴力をふるう父にも、新しい弟や妹の生まれた母にも、自分の寂しさを言えないでいた。ある意味、親戚の家に預けられているときよりも、僕は寂しかったかもしれない。

 13歳のときの補導をきっかけに、不良少年の時代が始まってゆく。喧嘩に明け暮れる毎日のその先に、副署長の倅との喧嘩があったのは、先に書いたとおりである。

 花屋で形成した人格、極道での人格、ピンク映画での人格は、互いに重なり合うこともなく、僕の中にまるで別人のごとく同居している。乖離こそしていないけれど、多重人格のような自分はこうして生まれたのではないかと、その晩考えていた。

 王先生とは香港に出かけた2泊3日と、日本で2度会っただけだ。なのに、ずいぶん鋭いところを指摘してくるよなぁと感じていた。そんな彼がなぜ撮影現場の見学に来たかというと、僕に興味を抱いてくれたからである。

 4月に香港に行ったとき、王先生は6月に僕を訪ねると約束してくれた。6月、彼は『日本人AV監督・代々木忠の人生について』という執筆計画を立ててきていた。その際、インタビューと撮影現場の取材等を依頼された僕は、光栄なことだと喜んで承諾した。

 今回、2日間一緒にいて感じたのは、王先生は深いところで人類の将来について考えていて、そのために人類学者としての自分が何をすべきか、見えている人なんだなぁということだった。出会うべき人に出会えたと、僕はいま思っている。

2010年07月23日